イヌの「できる」を増やすために 3 「できる」ように工夫する

「イヌのしつけにオヤツは使っちゃダメなんですか?」

そんなエントリを、以前に書きました。
そのエントリでは「ご褒美としてのオヤツ」について書いています。

セミナーでも、普段のセッションでも、このブログでも何度も何度も繰り返し言っていることですが「褒められたかどうかはイヌが決める」んですね。
こちらがどんな気持ちで、どんな意図で「褒めて」いたとしても、イヌが喜んでくれなければまったく意味がありません。

「褒める」というのは、「相手が喜んでくれるようなプレゼントを渡す」のと、非常によく似ています
「これで喜ばなきゃダメだ」「これなら絶対嬉しいはずだ」「これで喜ばないなんてお前はおかしい」そんなことを言う人は……なんか時々いそうだなぁと思っちゃいましたが、でも「おれが選んだものなんだから喜べ」みたいなのって、嫌ですよね。

イヌも同じ。

「これは嬉しい?あ、ダメ?これならどう?あ、これもダメ。
 じゃあ、これならどう?あ、OK?よかった」

こういう「繰り返しのやり取り」が大事なんです。
でもって、これってまさに「コミュニケーション」ですよね。
一方通行じゃなくて、まさに「相互作用」です。

さて、「イヌのできるを増やす」というテーマで、色々と書いておりますが、今日はそんなオヤツの使い方論争にも通じるお話。

イヌの「できる」を増やす、伸ばすために その3
「できる」ように工夫する

「オヤツの使い方論争(と勝手に命名してますけどありますよねこういうの)」で、結構言われるのが……
「オヤツを使うと、オヤツがないとできなくなってしまいます」
「オヤツを使うのはいいですが、依存してはダメです」
「オヤツはあくまでご褒美として使いましょう。いわゆるオヤツで釣るのは、賄賂を贈っているのと同じです」
あたりでしょうか。

結論から言います。


それのなにがアカンねん。


僕がよくこの話で例に出すのは、メガネです。
僕はメガネ男子ですが、メガネがないと割と色々と見えません。
いま、PCに向かってこの文章を打っていますが、メガネを外すと(実際にメガネを外しました)全田敵にぼやけてしまって、正しく文章を打てているのかどうかさぱりわかりません。

ほら、早速ミスってる。
全田敵ってなんだよ。
あれか。
国の一方的な減反政策的なナニカか。
正しくは「全体的」です。

このように、僕は「メガネ」という「物理的な援助設定」がないと、PCも満足に操作できない、文章もうまく打てないのですが、それって「よくない」ことでしょうか?

あるいは「足の不自由な人」が、車椅子に乗っているのは「よくない」ことでしょうか?

「目の不自由な人」が、盲導犬を連れているのは「よくない」ことでしょうか?

↑に「コミュニケーション」という言葉を書きました。

耳の聞こえない人が、聞こえる人との間で筆談をするのは、「よくない」ことでしょうか?

「コマンド」や「言葉かけ」だけで、イヌをコントロールすることができないときに「オヤツ」を使うのは、「よくない」ことでしょうか?

その「援助設定」すなわち「助け」があれば、意思の疎通が図れるわけです。
コミュニケーションがとれるわけです。
なら、いいじゃないですか、別に。

もちろん、訓練競技会に出るとか、フリースタイルやアジリティーの大会に出る場合、ルールとして「食べ物の使用禁止」というものが決まっているのは別です。
しかし、日常生活において「使ってはいけない」と誰が決めたんでしょう?

ここでお伝えしたいのは「オヤツを使う/使わない」という話ではありません。
もっと大きな話です。

たとえば、あなたは「ノーリード」で愛犬とお散歩ができるでしょうか?
もちろん、「ノーリードでの散歩」は禁止されていますので、やってはいけません。
仮に、そうしたルールがなく、「ノーリードで散歩するのが当たり前」となった場合、どうですか?
できますよという人もいれば、できませんという人もいるでしょう。
もしも「リードに頼って散歩するだなんて……リード依存だね」とか言われたら、どうでしょう?

たとえば、駅の券売機。
あれがもしも、身長が100cm以下の人用に設計されていたら、175cmある僕なんかは非常に不便です。
今僕が不便なく券売機で切符を買えるのは、平均的な身長の人に買いやすい設計になっているからです。

たとえば、階段。
もしも1段の段差が1mもあったら、ほとんどの人は不便になります。
今私たちの多くが階段を不自由なく上れるのは、そういう設計になっているからです。

私たちは、誰もが何らかの「助け」を受けながら生きていま

誰からの助けも受けずに生きている人なんて、この世にいません。
絶海の孤島で、たった独りで生きている、それこそロビンソン・クルーソーみたいな人ならまた違うかもしれませんが、そういう人は他者との関わり自体がありません。

そして、その「助け」の質や量が、人それぞれで違うだけの話です。
そして、それはイヌとの関わり方でも、同じといえるのではないでしょうか。

こういう風に考えたとき、「何らかの助けがあればできる」「ちょっとした工夫があればできる」ということを、「それはよくない」とするのはどうなんでしょう。
つまり、何らかの「助け」「工夫」があれば、スムーズにイヌとコミュニケーションを図れる、イヌの「できる」をその場で成立させられるのであれば、それで構わないじゃないかと思うんです。

あなたは、どう思いますか?

「あともうひと工夫あれば、この子はこれができる」

だったら、それをやりましょうという話です。
その「あともうひと工夫」を見つけましょうという話です。
「オヤツなんかに頼らずに、コマンドだけで動かせるようにならなければいけない」という意見の「コマンド」だって、その「もうひと工夫」です。
だって、コマンドがないとできないんですから。
お伝えしたいのは、こういうこと。

「できる」工夫を見つけて、それでどんどん褒めちゃいましょ。

そうすれば、もっと色んなことが「できる」ようになっていきます。

続きます

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hit1678 について

1978年9月17日生まれ。♂ Dog Life Design ocean style代表。 行動学(行動分析学)に基づいた、イヌの問題行動の改善が専門。 高校卒業後、警察犬訓練士に師事。その後、家庭犬の訓練に従事する。 現在は、問題行動の改善をメインとしつつ、しつけ、トレーニングではなく、「ヒトとイヌの暮らし」を支える「Dog Life Design」というコンセプトで、京阪神をメインに訪問セッションやセミナー講師を務める。 現在、立命館大学大学院応用人間科学研究科応用人間科学専攻(対人援助学領域)に通う社会人大学院生。
カテゴリー: イヌの「できる」を増やす, ベースアレンジ, 考え方のベースアレンジ タグ: , , , パーマリンク